"認知症ケアと人材育成"

今日の午後は、スウェーデンの某高齢者施設の施設長による"認知症ケアと人材育成"研修に参加した。というか開催方だったので、事前準備もした(笑)

スウェーデンの認知症ケアというか、高齢者ケア全体について思うのは、"手を出しすぎない"ということである。日本の高齢者ケアでは、理屈では"残存能力の活用"などと言っていても、実際には"何かをしてあげること"こそが"ケア"であると位置づけられているように思う。つまり、日本では、食事介助や排泄介助、入浴介助などで実際に手を出して援助することが、介護であり、ケアであるのだ。手を出す介護は、特に家族介護の場合に、顕著になる。家族が本人のためを思ってしている行為が、実は本人の残っている能力を失わせる要因になっていることは多々ある。

しかし、スウェーデンでは、実際に手を出すことではなくて、本人がそうしたいと思うような環境作りをすることに"ケア"の重点が置かれる。つまり、食事をとりたくなるように食卓を飾ったり、食卓にお花を置くことで目と鼻へも刺激をして、そこから季節の会話につなげるきっかけにする。また食事を単に栄養摂取ではなく、社会的活動と位置づけ、会話を楽しむことにより食欲を刺激するなど。もちろんスウェーデンの高齢者福祉の現場で、どこまで実践されているのかについては施設間の差などもあるとは思うけど、それでもその発想自体が日本とは違う。

そしてスウェーデンでは、お年寄りの隣に座って新聞を読んであげたり、穏やかに手をさすってあげながら話をすることが、非常に重要な"ケア"として位置づけられている。だけど、日本の特別養護老人ホームで、介護職員がそんなことをしていたら、おそらく絶対に周囲からそのヒトは仕事をしていない、さぼっていると思われるだろう。いやいや、それ以前に介護保険制度下では、そんな悠長なことをしている余裕は、現場にはもはやありえない。

話は少しそれるけれど、そのような余裕のなさ、本当にしたい介護やケアを法律や制度でがんじがらめにされて、現場での自発的な工夫や専門性を思うように発揮できないことが、日本の高齢者福祉の現場から次々と人材が離脱していき、現在の人材難を生じている最大の理由ではないだろうか。一般的には、給与の低いことや待遇の悪さが人材難の原因といわれているけれど、それは決して本質的な理由ではない。"福祉援助をどのように位置づけるか?"という根本に係わっているのだ。

で、話を戻して。例えば、日本の高齢者福祉施設で"アクティビティ"というと、それは音楽療法であったり、行事活動であったり、いわゆるイベントを指す。一方、スウェーデンでは例えば花壇にチューリップを植えておいて春を感じさせる環境をつくること、または鶏を庭で飼って、外に出たい気持ちを刺激すること、また先ほどの隣に座って新聞を読むことなどが"アクティビティ"と言われる。つまりほんの小さなことでも五感を刺激することが、"アクティビティ"なのだと理解している。

これらの違いの背景には、"個"とか"自立"という基本的な概念に対するスウェーデンと日本の文化/社会/歴史の差が大きく影響しているので、決して一概にはどちらが良いとは言えない。だけど、私のGöteborgs universityでの修士論文のテーマであった、"何が施設を施設的にしているのか"という視点から見ると、そこにはやはり日本の特養がどこまでいっても"施設的"な施設でしかないことの一因はあるように感じざるをを得ない。

今では英語で格闘しつつよく書いたなあと思い起こしてしまう、修士論文で調査した"施設的/家庭的"を分ける要因のひとつに、"ケアのあり方"を結論付けた。あのときはスウェーデン内での調査だったので、こういうことは思いつかなかったけれど、あらためて自分のなかで整理できた研修だった。