帰省:4日目"大家族と核家族における育児の違い"

昨夜から相方氏の実妹さん一家がもう一組合流されたので、今日はおじーちゃんとイトコのおねーちゃん2人(小学校4年生と1年生)と一緒に近くのプール付の温泉クアハウスに出かけるという。我が家の親チームは水着をもってこなかったので、ポコンたんに"ぱぱぃとままぃは行かれないけれど、どうする?"と聞いたところ、"大丈夫!!ひとりで行かれる"とのこと。そのまま素直にみなさんに連れて行っていただいた。ままぃは拍子抜け。

毎年思うことだけど、今年の帰省でもあらためてしみじみと実感したのは、大家族のなかでの育児は非常に非常に楽だということ。普段は、いくら自分の実家が近所とはいえ日常的に同居しているわけではなく、9割は相方氏と私だけで育児と家事(と仕事)をなんとかぎりぎりこなしている。もちろん実家から折りに触れて有形無形の支援を受けており、完全な核家族よりもは比べものにならないほど恵まれているけれど。

育児の負担感は、おそらく"手"と"目"に集約されるといえる。"手"というのは、言うまでもなく例えばトイレについって行ったり、食事をさせたり、お風呂に入れたり、等々の具体的な対応の部分。これが普段だと、例えば料理している途中でも"ままぃ〜、うんち〜"と言われれば、ガスの火を止めてトイレに行かなくてはならない。ところが帰省中の大家族環境では、お風呂すらも、気がついたらイトコちゃんやイトコちゃんママと一緒に入っていて吃驚、などいう幸運な状況になる。しかも自分がお風呂に入っている間は、同じくおじーちゃんやイトコちゃんと遊んでいるので、安心してゆっくり入浴できる(これは"目"の側面)。

育児の負担感の"目"というのは、つまり"目が離せない"ということ。3歳になると多少は軽減したけれど、子どもが小さければ小さいほどこの精神的なプレッシャーは、文字通り筆舌に尽くしがたいほど大きい。乳児ほど、小さいくせに存在感は途方もなく大きい存在はない。目を離すことができる環境になって初めて、いかに普段このプレッシャーを抱えて過ごしているかを実感する。

小さい子どものいる核家族で親、特に母親が、自分自身だけの時間を持つことは本当に困難である。特にフルタイムで働いていると睡眠時間を削るしか手はない。だけど、大家族環境だと、いとも簡単にその貴重なひとりの時間、ひとりでお皿を洗う時間、ひとりで洗濯機に向かう時間、ひとりでトイレでうなる時間をもつことができる。そのあまりのあっけなさに、"なんなんだ、この違いは、一体!?"と今回つくづくと驚いたのだった。

他に、特に相方氏の実家は"これが日本の田舎だっ!!"という印象の田舎なので、集落全体の顔と名前をお互いに知っているようなところ。子どもを連れて散歩をしていると近所のおばさんやおじさん、おばあさんやおじいさんが次々と声をかけてくれる。これは相方氏が言っていたのだけど、要は地域全体が外側の大家族を形成しているのである。こういう環境であれば、子どもたちだけで外で遊ばせることももちろん可能だろう。

ただ相方氏の実家も普段は相方氏のご両親と要介護の御祖母様だけであり、地域全体の高齢化も進んでおり、後継者がいないために荒れている田畑も増えつつあり、商店街はシャッターが閉まっている店も多々あるなど、日本の地方地域の抱える問題点を象徴しているのだ。

言いふるされたことではあるけれど、従来の制度や仕組みが前提としていた家族や地域のあり方が根本的に変わってきているのだから、その善し悪しではなく、変わったという事実と現実の姿に基づいた制度や仕組みをつくっていかないと、立ち行かなくなるのではないのだろうか。否、制度や仕組みが前提にしているモノと現実とのギャップが大きいために、私たちの生活がそれぞれに行き詰っている感があるのではないかと、公私それぞれの場面で痛感している。