読書記録は、読了後にのみ書くことにしているのだけど、今回は例外で、読み始めたばかりの本。
荻原久美子"迷走する両立支援"(太郎次郎エディタス,2006)は、副題に"いま、子どもをもって働くということ"とついているとおり、おそらく日本で働く母親、働きたいと思っていて断念している専業母親、その夫である父親たち、要するに仕事と育児の両立に直面している誰もが感じている閉塞感というか、行き詰まり感というか、その実態をリポートした書籍である。
まだ読み始めたばかりなのだけど、深くうなづいてしまったのが下記の箇所。
(「今私たちの周りで始まっている『ワークシェアリング』は、どこかボタンを掛け違えている」という別の方の著作の引用の後で)
まだ始まったばかりの段階で判断するには早すぎるかもしれないが、正直なところ、私はそれと似た感覚を、日本の「ファミリーフレンドリー企業」「ワーク・ライフ・バランス」に感じている。期待をよせながらもなお、日本の両立支援に大きな可能性を開くはずのこの言葉が、実践では「ボタンの掛け違い」になるのではないかとの危惧がぬぐえない。
pp.14-15
これは全く同感。すでに政策用語とすらなっている"ワーク・ライフ・バランス"には、とても期待したい。だけど素直に期待できない何かがそこにはある。さらに言えば、この"ボタンの掛け違い"は、"ユニットケア"や"グループホーム"などでも発生しているような気がする。
"ワークシェアリング"も"ワークライフバランス"も"ユニットケア"も"グループホーム"も、全て生活のあり方に関するものだ。そして生活は、その社会の文化や歴史がどうしようもない前提として存在する。欧米で先行しているこのような用語が輸入されるとき、それは必ず形式や様式として導入されているように思われる。それらの用語(概念)の根本となる基本思想や哲学が導入されているわけではない。そこから"ボタンの掛け違い"が生じているのではないだろうか。
本来は、その概念や制度の基本思想や哲学を参考にして、それをどうこの社会で実現するかを考えるのが本筋なのではないか。それが実現されれば"ボタンの掛け違い"は発生しないように思うのだけど。うがった見方をすれば、日本でそういう概念の導入を行っているエライヒトたちは、そんなことは百も承知で、あえて"ボタンの掛け違い"を生じさせているのではないだろうか。
ありゃ、長くなってしまったので、本題についてはまた読み進めてからあらためて。
- 作者: 萩原久美子
- 出版社/メーカー: 太郎次郎社エディタス
- 発売日: 2006/07
- メディア: 単行本
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