10数年振りの恩返し

2024年5月19日(日)

今日は自分の持つ慢性疾患の患者会の総会に10数年ぶりに参加した。1995年に会が開始した当時の発起人のひとりとなり、その後数回は参加していたけど、社会人になり時間のゆとりがなくなったことと、同年代の患者さんの親御さんから「あなたは元気になっていいわね。うちは寝たきりよ」と言われたことで、自分の存在が他者を苦しめることがしんどかったので足が遠のいてしまった(自分が親になった後、おそらくその言葉にはわたしへのエールも含まれていて、当時のわたしが字義通りに受け止めたほど単純なものではないことに気づいた)。

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19歳のときに、ある眼科の先生が鑑別疾患に気づいてくれて、当時国内でほぼ唯一の専門の医師だった先生に紹介してくださったことが、運命の転機だった。このおふたりは文字通りのいのちの恩人の先生。そのいのちの恩人の先生に不義理を重ねてしまっていることを心苦しく思っており、会のお手伝いをすることが少しでも御恩返しになるのではないかという気持ちもあり、数年来断り続けてきた事務局のお手伝いへのお誘いに今回から応じることにした。

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今日の総会は定期通院している病院の講堂が会場だったのだけど、日曜日の面会時間外の病院のセキュリティの厳しさに閉口する。警備室の女性の案内がわかりにくかったこともあり、右往左往しながら講堂に到着。その後にいらしたいのちの恩人先生(元学長で院長もされていたのに!)までセキュリティに阻まれたとお聞きして、さすがに失礼なのではと内心憤慨したり。

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事務局の事前打ち合わせが始まる前に、会長からいきなり「何をやってもらえる?大きくは広報誌の作成と会計なのだけど」と聞かれたので、「どちらでもおっしゃっていただければお手伝いします」と応じたところ、会長がひとりで対応されていた会計をまるっと引き継ぐことになった。会長はわたしより20歳年上の女性で、全国からの相談や医師の先生方へのつなぎも対応されていて、おひとりで会計まで対応されるのは相当に重荷だったようで、ホッとされていた。仕事の内容としては、当然のことながら会計基準があるわけでもなく(今回気がついたけど会則なども全くないのだった→【訂正】会則はありました)、これまではノートに手書きで行われていた。手書きは無理なので、とお伝えすると、パソコンでもなんでもやりやすいようにやってくれて全く構わないとのことで安堵する。自由にやって良いと言われたので、言うまでもなく必須のポイントは押さえた上で、可能な限りDX化というか自動化をはかるつもり。

会長以外には、地方支部の取りまとめをされている方も含めて、事務局として数名の男性がいらしていて、全員わたしより歳上。本人ではなくお子さんが患者さんの方もいらして、頭が下がる。会の開始時当時からのメンバーの方には覚えていてくださり、みなさんから好意的に迎えていただきほっとする。

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打ち合わせ終了後は、受付業務のお手伝い。いのちの恩人先生とも本当に久しぶりにご挨拶することができて、最大の目的を達成。職場の季刊誌をずっと読んでくださっているとのことで、有難い。自分の主治医も含めて、複数名の医師の先生方、治療薬の製薬会社の社長及び数名、そして患者やその家族。大人と子どもは別れて活動し、子どもの方には看護師さんや薬剤師さんも大勢参加していた。大人の方は、参加者ひとりひとりが病気の状況や経過などを自己紹介をかねて発表し、おひとりおひとりの人生がせまってきた。皆さんのこの語りを聞き書きしたら、ものすごく価値のある記録になるのではなかろうか。

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質疑応答にうつり、会場でマイクを渡す役を引き受けながら、この会の意義を明文化するならば、第一に患者や家族と医師や医療専門職との橋渡しをすること、第二に当事者が病識を深め怠薬を予防すること、第三に特に小さなお子さんの患児をもつ親御さんに悲観的になる必要はないことを伝えること、そして第四に広く啓蒙活動を行うこと(20年前より広まってきたとはいえ、まだまだレアな疾患で、これだけ症状に個人差が大きいと確定診断までに時間がかかるケースが多く、会のウェブサイトをみて代表に連絡があり医師につながる例も多かった)あたりに整理されるのかな、などと考えたり。

終了後、会場の原状復帰を行ったあと、事務局中核メンバーでの再び打ち合わせに同席。仕事でも家庭でもない場で、たくさんひとと話したためか、なぜかとても元気を回復して帰路についた。