なんとかなるさ

数日前,ターミナル駅で乗り換えるとき,ちょうど周辺の学校の下校時間だったため,制服姿の中高生を大勢見かけた。中に長女が中学受験の際に合格したけど進学しなかった学校の生徒さんがいたので,もしあちらの学校に進学していたのなら,今頃は長女は学校に通い続けられていたのかなとぼんやり思った。思った直後,いや,その学校を選択しなかった理由は明確なので,もっと手前で違う課題にぶつかっていた可能性が高いだろうなと思い直した。では受験しなかったC校だったら?塾で仲良しだったお友達が進学したD校だったら?…考えても無意味なことをぼんやりと考えながら,帰途についた。

3月頃に長女が五月雨登校になった頃,当初わたしは“勉強“が理由なのではないかと思っていた。だけどおそらく順番は逆なのだ。身体的な不調ゆえに授業に集中できず,勉強が面倒くさくなるのだ。

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否が応でも,自分の高校時代を思い出す。

最終的に高校卒業後に“ウイルソン病“という銅代謝異常の難病であることが判明したのだけど,発症は中学3年生のときだった。最初の症状は垂涎で,その時のことは今でも覚えている。そしてそれまでそこそこだった成績が下がり始め,勉強に対する興味も意欲も失っていった。その後の高校時代は惰性で登校し,カタチだけ上辺だけ勉強しているフリをしていた。ウイルソン病の症状は個人差が激しいのだけど,わたしの場合は垂涎,構音障害,書字障害が一番つらくて,最後の方は両親ですらわたしの発語は半分程度しか理解してもらえていなかっただろう。

勉強していなかったのだから当然の帰結として,大学受験は全滅。浪人生となって通い始めた予備校の健康診断で受診した眼科で,鑑別症状であるカイザー・フラッシャー・リング(角膜に銅が沈着して生じる)を発見してもらい,日本でほぼ唯一専門の研究をしている大学病院を紹介してもらったことで,いまのわたしがある。

なおその大学病院を受診した当日から100日の入院を経て,退院した2月の晴天の日がわたしの人生の第二章の始まり。その後通信制大学に2年間在籍→他大学(通常の学部)に編入→某研究科(社会福祉士養成校,当時)→社会福祉士として現在の勤務先に入職→2年後社会人院生→博士後期課程進学→休職して留学→帰国して復職という超変則的進路を進むことになった。

…と書いてきて,そっか,わたしは大切な大切な長女に自分がした苦労をさせたくなかったのだな,と改めて気がついた。特に日本社会は同調圧力が強いから大多数のひとが進む道を同じように歩む方が簡単で,自分も楽なのは確か。でも何が正解かなんて,わからない。しかも当時よりオルタナティブ(多数とは違う道)は許容されている。大丈夫,母は紆余曲折ありながらも,なんとかなっているよ。それに母だけでなく、紆余曲折を抱えているひとは見えているより多い。なんとかなるさ。