聴くこと、話すこと

2024年4月30日(火)

コミュニケーションは自分にとっての永遠の課題である。何年も前から、苦手意識を改善するために、他者のコミュニケーションを観察している。まだ長女が保育園児だった頃、とても話しやすい相手と話していて、どうしてこんなに話しやすいのかと観察しているときに、結局そのひとは聴くことが上手なのだと気がつき、うまく話すことより聴くことの方が大切だ!と真理を自分で発見したことは少なからず自分の人生を変えた。

コロナ禍で断絶していた保護者仲間との対面でのコミュニケーションが再開したり、新たな交流関係ができて、「聴く」にも2段階あることに気がついた。「単に話を聞く」と「相手が話を続けやすいように話を聴く」の二つで、この差は大きい。わたしにできているのは前者までで、長女は後者だ。先日たまたま「まず、話をちゃんと聴く」という書籍を立ち読みしていて、聞き手の主観を挟まずに、話されている内容にフォーカスして聴くことが「聴く」ということだと読み、なるほど!と膝を打った。

例えば、話がいまひとつうまくないひとの特徴として、なんでも自分のことにひきつけて話す、というのがある。わたしは、かつて何か話さなくてはと焦るゆえに、このパターンに陥っていた。いまは相手の話を聞くことにシフトしているから、その悪癖は出る機会は減ったけれど、でも結局主観的に話を聞いているようにも思う。「相手が話を続けやすいように話を聴く」のがうまいひとは、いわば取材者のようにその場で話されている主題にフォーカスしているので、話し手の話が続いていくのではないだろうか(仮説)。

一方、さらにその先に「話すのが上手なひと」がいる。大体頭の回転が早く、自信家で自己肯定感が高めなひとが多いけど、共通しているのが「前提条件の提示のうまさ」である。聞き手にとって初めての話題でも、絶妙な粒度でその話題を理解するための情報を提示してくれる。我が身を振り返ると、細部まで話しすぎてしまい、却って話が通じにくくなる傾向があることは自覚している(さらに滑舌が悪いので、聞き取りにくい。そしてわたしはますます話さないひとになっていく)。

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今日、ある打ち合わせに参加していた。業務上自分はあまり馴染みのない領域が主題で、他のメンバーが当然に共有している前提条件を自分はわかっていない、という最近では珍しい場面だった。低気圧のせいか頭痛がひどかったこともあり、自分がどこまで理解しているのか、どこまでついていかれているのか、少々途方にくれてしまった。今回の件は自分の業務範囲の問題でもあり、勉強すれば良いだけなので問題はない。ただ打ち合わせも会議も保護者仲間との会話もコミュニケーションとは「聞き手と話し手の情報のレベルを同一にすること」が肝要なのだとあらためて考えた。そして自分が「話し手」になる場合には、「前提条件として、何を、どのように伝えるか」を整理してから話すことを心がけようと思った。

頭で理解することと自分が実践することの間にはおおきなギャップはあるけれど、気がつくことがまずは第一歩。

 

↓立ち読みではなくて、ちゃんと読みたい一冊