続・"こうのとりのゆりかご"

昨日分のニキ"こうのとりのゆりかご("赤ちゃんポスト"から改題)に、yui先輩から長文のコメントをいただいたので、そのレス。

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うん、yui先輩の書かれていることも理解できます。理解はできるけど、自分の意見は変わらないです。

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なぜなら、第一に何より最も重要なのは、"いのちあること"だから。福祉において、その基本になるのは生命の安全で、その上で初めて生活の質(Quality of Life)の問題が出てくる。話はわき道にそれるけど、だから"社会福祉"の反対語は"戦争"だと私は考えている。

もちろん遺棄を推奨しているわけではない。でも、殺す/殺されるよりマシだと思う。yui先輩の書かれている"「殺意を覚える」のと「殺す」の"の狭間、どうしてその一線を超えなくて乗り切れるのか/越えてしまうのかは、私にはわからない。だけど、人間が社会の関係性のなかで生活している以上、それを本人自身だけの原因ではないと思う。そこにはその本人を追い込んでしまう、過去や現在の生活環境(家庭環境、周囲の人間関係、教育歴等含み)や政治経済社会制度など社会的環境的な原因がある。私は、問題を全て個人に帰するなら、社会福祉なんて不要だと思うので、そして私は社会福祉は不要ではないと信じるので、そう考える。

だから、遺棄や虐待をさせない/しないで済む社会制度を作らなくてはならない。だけど、それが今の日本では実現されていない。むしろ後退する一方に見える。

育児も介護も(そしてきっといじめ問題に)も共通するけど、人間関係でトラブルが発生したときに最も有効なのは当事者同士を離すこと。"こうのとりのゆりかご"は、その点では極めて実効的だ。それは本当に最後の最後の手段だけど。

育児や介護を毎日毎日24時間365日体制で行っている家族を救うのは、その話を聞いてもらうこと。そしてもっと実効的なのは、子どもやお年寄りから離れてホッと気を抜く時間。だからこそ、在宅介護を支える最も重要な"制度"のひとつが、ショートステイだ。家族と同居するお年寄りにとってショートステイは、本人の希望ではなく、ほとんどの場合は家族の希望によるものだ。だけど、ショートステイの1週間で、介護を担う家族はリフレッシュして、追い込まれずに、また在宅介護を継続することができる。

だけど育児には、そのようなリフレッシュの機会がごくごく限られている。まず児童相談所の一時保護以外には、ショートステイはない。デイサービスについても、保育園は、フルタイムで働く家庭ですら待機にされてしまうことがあり、専業母親には絶対に利用できない。児童館等で親子一緒に遊ぶ機会は、ほとんどの自治体で実施されているけど、一時保育のような日中子どもだけを預かってくれる事業はまだまだ本当に限られている。第一、専業母親が子どもを預けるサービスを利用すると、周囲からは何故か悪いことをしているように見られるし、下手をすれば正面からそう言われる。

介護は、介護保険制度導入以降、介護サービスを利用することに抵抗観や周囲の偏見等は少なくなっている。だから在宅介護をしている家族がデイサービスやショートスティを利用していても、介護者自身が罪悪感を持ったり、周囲から咎められたりすることは、少なくとも以前より減っているはず。これは本来の"介護の社会化"とはいえないけれど、でも介護保険制度が導入されたことによるひとつの"効果"だとは思う。別にそのために介護保険制度が必須だったわけでは、全くないけれど。

だけど育児は、介護の何倍何十倍何百倍も、まだまだ"家族"というか、"母親"がすべきものとして日本の社会では位置づけられている。そして母親たちは、"良き母親でいなくてはならない"という有言無言のプレッシャーのなかで育児を行っている。そのプレッシャーは、私自身ですら感じているくらいだから、きっと物凄い圧力なのだろう。それが何より孤独な母親たちを追い詰め、他人や相談機関に助けを求めることをできにくくしている。そして一時保育などに預けたくても、もしその存在を知っていても、預けられなくしている。

そう。だからそもそも、この国には遺棄を防ぐための"制度"が少なすぎるのだ。むしろ追い詰めるように傾いているようにしか見えない。そして"こうのとりのゆりかご"は"制度"ではなく、設置病院の独自事業だ。おそらく"いのちを救いたい"という止むに止まれぬ思いから、設置されたものだ。もしかすると逆提言の意味もあるのかもしれない。

ある新聞の記者の書くコラムで"こうのとりのゆりかごに「捨てる」なのか「預ける」なのか、書くのに非常に悩んだ"と書かれていたけれど、もしかするとyui先輩の書いているとおり"捨てる"なのかもしれない。だけど、親が同じその行為を行ってしまうなら、もしくは虐待してしまうなら、少なくとも"いのちを救える"場所が、最後の最後の最後の救いの手段として提供されることは、決して"人道的ではない"わけではないと思う。

もし"こうのとりのゆりかご"を国が"制度"として位置づけたのであれば、それは全く別の問題になるし、私の意見も"その前にやることがあるでしょ"というものに変わる。

もちろんこのような事業が必要ないに越したことはない。だけどそのための社会制度が不十分だから、このような逃げ場が必要になってくる。そのことを理解せずに、気軽に"児相に相談してくれれば"という官僚や"あってはならないこと"なんて言い放つ政治家には、本当に本当に腹が立つ。腹が立ちすぎて、哀しくなってくる。

私自身は、虐待等を防ぐ最も有効な育児支援は、保育園をもっともっともーっと増やして、親が働いていようが働いていまいが、希望する場合は利用できるようにすることだと考えている。さらに、希望する日数だけ、希望する時間帯だけ、利用できると理想だ。でも本当に本当に残念で哀しいことに、この国はその方向にはいかないだろうけれど。

誤解されているかもしれないけど、私は別に積極的に賛成しているわけでも、もっと"こうのとりのゆりかご"の設置が増えれば良いと思っているわけでもない。ただ簡単に反対してしまうには、現在の育児をめぐる状況は厳しくて、支援サービスは少なすぎるし、少ない相談機関や支援機関の存在は一般に浸透していない。だから現状でこどものいのちをまもる最後の手段として、"こうのとりのゆりかご"の設置を肯定している。

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あー、うまくまとめられないけど、一応以上です。