2022年3月16日(水)
今日から長女は登校再開。午前中から授業がある日だったので、朝にしっかり起きている姿を見て内心安堵する。放課後は一度帰宅したあと、夕方に再度外出し、私立中高一貫女子高に通学する小学校時代のお友だちと会ってたくさん話してきたとのこと。夕食後に嬉しそうに話してくれた様子を見て、こちらもとても嬉しい。
その際に理科の選択科目について相談を受けたので、一緒に現時点での志望学部の入試要項を確認し、結論が出た。長女は大体保育園〜小学校〜今に至るまで、志望する職業・学問領域がほとんど変わらないのは素晴らしいことである。
大学がどんなところかわからないから、オープンキャンパスなどに行ってみたい、自分の立ち位置を知りたいから、模試を受けたいという。
高校転校は大きな、ほんとうに大きな選択だったけど、そのおかげで長女が楽になり明るくこんな風に前向きになれたのなら、長女(と我が家)の正解だったなと改めて思った夜だった。
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おそらく長女が一番興味のあるであろう内容を学べる学部は、相当にハードルが高い。ただ全く届かないわけではない。人生、やってみないとわからない。例えば、いまから1年10ヶ月本人がゲームや動画を絶ち、迷わずに勉強に励むならば、通信制高校の時間的に余裕があることは大きなメリットなので可能性はあるだろう。全ては本人がどれだけ強くそれを望むか、による。
サニスケのカテキョ先生が話していたことだけど、結局どこを目指すにしても取り組む勉強は同じ。大学受験の勉強は中学受験の勉強よりもっとその側面が強い。だからいまの時点では、学部や学校をあまり絞らずに、勉強をするのがよい、とのこと。なるほど、納得。
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長女にも、サニスケにもなにがなんでも偏差値の高い学校を、というような考えは一切持っていない。ふたりとも自分たちが興味のある領域を学べる場所、笑顔で日々を過ごせる場所を見出してほしい、というそれだけである。
ただこの数年間子どもたちの勉強サポートしてきて、わたしの中で偏差値というモノに対する認識は少し変化した。以前は偏差値アレルギー的な脊髄反射的嫌悪感を持っていたけれど、偏差値や成績というのはその時点の努力の到達度を測る指標、努力の結晶であることは事実であると知った。本人の偏差値というのは、例えば徒競走の順位みたいなものだ(そして学校の側の偏差値というのは“人気ラーメン店の行列の長さ“みたいなものだと言われる)。
ただ徒競走の内容が、わたしたちの時代とは相当に変化しており、十分に取り組む価値があるものになりつつある。イマドキの中学受験も大学受験は、世間一般で思われているほど?暗記や詰め込み学習によるものではなく、基本知識を理解(暗記)した上で本人の思考力が問われるフェーズに移っている。
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一例として、先日ある偏差値の全く高くない私立中学の入試問題(社会)に“近年聖徳太子は実在しないという説が有力だが、聖徳太子が実在したか/しなかったかを調べる方法はどんなものがあるか、自分の考えを書きなさい“という問題を見て、心底感心したのだった。この問題にはおそらく正答はない。ただ、聖徳太子がどのような歴史人物かという基本知識をもとに、存在を確認するための仮説(発想)の理屈の一貫性が通っていることが求めれられるだろう。
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サニスケは今日まで学級閉鎖(オンライン授業)。夜は珍しく長女が参戦して、理科の基本知識を三人で確認。子どもたちと共に過ごすこの時間が幸せ。